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最速163kmという人間離れしたスピードボールが注目され一躍人気選手となった岩手県立大船渡高校の佐々木朗希選手

高校生最速どころかエンゼルズの大谷翔平選手が保持する日本人最速記録にあと2kmという球速であり、2019年の高校野球大会に出場した選手としては最も注目を浴びていましたよね^^

残念ながら岩手県大会の決勝で敗れるという結果に終わってしまったのですが、それでも彼ほど日本中を賑わせた高校球児は少なくとも2019年にはいなかったのではないでしょうか?

そんな大船渡高校の佐々木朗希選手なのですが、実は彼は高校進学時にあの大阪桐蔭からも特待生の話が来ていたというのですね^^

要はあの大阪桐蔭から「うちに来ないか?」と誘われていたということですが、なぜか朗希選手はそんな誘いを断り地元の公立高校に進学したと言われているのです

大阪桐蔭と言えば名門中の名門でありそんな高校から声を掛けられることは名誉でしかないと思うのですが、一体なぜ朗希選手は大阪桐蔭からの誘いを断ってしまったのでしょうか?

今回の記事ではそんな朗希選手が大阪桐蔭からの誘いを断った理由について見ていきたいと思います^^

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佐々木朗希 プロフィール

  • 名前:佐々木朗希(ささき ろうき)
  • 生年月日:2001年11月3日
  • 出身地:岩手県陸前高田市
  • 中学:大船渡市立第一中学校
  • 高校:岩手県立大船渡高等学校
  • 身長:190cm
  • 体重:86kg
  • ポジション:投手
  • 投打:右/右

それでは最初に佐々木朗希選手のプロフィールから見ていきたいと思います^^

岩手県陸前高田市出身の朗希選手は陸前高田市立高田小学校に通っていたそうですが小学3年生の頃に東日本大震災に遭い大船渡市立猪川小学校に転校しているというのですね

その後転校先で朗希選手は陸前高田や大船渡など被災地の野球少年で構成される『オール気仙』というチームに入団することになったようですが、当時の選手たちは「地元の高校に進学し野球で被災地を盛り上げよう」と約束していたというのです

中学に進学すると彼は当時通っていた大船渡市立第一中学校の野球部に所属し、投手として活躍したというのですね^^

なんでも当時から非常に球が速かったようで、中学3年生の頃には軟式であるにもかかわらず141kmを計測したのだとか‥‥

一般的に硬式と比べて軟式は球速が出にくいと言われているようですが、そんな軟式のボールで朗希選手は中学時代からプロ顔負けのスピードボールを投げていたのですね^^;(笑)

高校に進学する際には多くの名門校から声を掛けられ、その中には大阪桐蔭の名前もあったようですが彼はこれらの誘いを全て断り地元の大船渡高校に進学したといいます

その理由については後述するのですが、彼はプロへの近道とも言える名門私立からの誘いを全て蹴り地元の高校に進学したということですね^^

大船渡高校は過去に甲子園に出場したのが1984年の春と夏の二度だけという決して野球の名門校ではないのですが、それでも朗希選手の才能はそんな普通の公立高校にありながらも1年生の頃から非常に注目されていたというのです

中学時代に141kmを計測したスピードボールはその後も順調に進化し、高校入学から3ヶ月後にはなんと147kmというスピードを記録し高校野球界では名の知れた存在となったと言われています

その後高校2年生の夏には最速154kmを計測し、高校3年生の春に行われたU18日本代表候補研修合宿では163kmという大谷翔平選手に次ぐ日本人2位となる最速記録を打ち立て一躍時の人となりました

残念ながら高校最後の夏では同じ岩手県内の強豪・花巻東高校に大敗し甲子園には出場することなく姿を消してしまったのですが、今後最も注目される野球選手の1人なのではないでしょうか?

菊池雄星選手や大谷翔平選手、そして佐々木朗希選手と天性の肩の強さを持つ選手が揃っていることで近年は岩手県が注目されているようですが、おそらく近い将来にはそんな同郷の先輩である大谷翔平選手が打ち立てた日本人最速記録・165kmも追い抜くのではないかと言われているのですね^^

佐々木朗希の父親は東日本大震災で亡くなっていた!?

続いては朗希選手のお父さんが東日本大震災の際に亡くなっていたということについて見ていきたいと思います(-_-;)

前述したように岩手県出身の朗希選手はまだ小学3年生の頃に東日本大震災の被害を受けたようですが、その際なんと彼の父親が亡くなっていたというのですね

彼の父親は佐々木功太さんという方のようですが、当時はまだ37歳という若さだったと言われています

まぁ当時の朗希選手の年齢が9歳ですから当然お父さんも若いものだと思っていたのですが、功太さんは37歳という若さでこの世を去ってしまったのですね

そしてそんな父親の死は当然朗希選手の心にも大きなショックを与え、当時は家族の誰とも話をすることができないほどに落ち込んでいたというのです

佐々木が生まれ育ったのは、岩手県沿岸部の陸前高田市でした。’11年3月の東日本大震災で、壊滅的な被害を受けた場所です。佐々木のお父さんの功太さんも、津波にのまれ37歳の若さで亡くなっています。小学3年生だった佐々木は、ショックでしばらく家族とも会話ができなかったそうです。

まぁ9歳という若さで何の前触れもなく父がこの世を去ってしまえば大きなショックを受けてしまうのも当然のことでしょう

そしてこのような父の死も朗希選手が名門校からの誘いを断った要因の1つだと言われているのですね

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佐々木朗希が名門校からの誘いを断った理由

それではいよいよ当記事のメインテーマである朗希選手が大阪桐蔭など名門校からの誘いを断った理由について見ていきたいと思います

やはり大阪桐蔭など名門校に進学する選手は中学時代から硬式野球のチームに所属しているという印象があるのですが、朗希選手は軟式の中学校の野球部に所属していたのですね

しかしその才能は軟式野球チームに所属していながらもあまりにも際立っていたため、多くの名門校が彼を特待生として迎え入れようとしていたというのです

そしてその中にはあの甲子園の常連校である大阪桐蔭の名前もあったのですが、実は朗希選手はこのような多くの名門校からの誘いを全て断ったのですね(-_-;)

普通に考えれば朗希選手ほどの才能があれば名門校に進学し甲子園やプロを目指すものだと思うのですが、なぜか朗希選手はこのような名門校からの誘いを全て断り地元の無名の公立高校への進学を決意したのです

どう考えても腑に落ちない、理解ができない決断だと思うのですが、実はその背景には幼い頃から共にプレーしていた球友たちとのある約束の存在があるというのですね

 自宅を流された佐々木の一家は大船渡市に移住。そこで入団したのが、陸前高田や大船渡など被災地の野球少年で構成される『オール気仙』というチームです。選手たちは『地元の高校に進学し野球で被災地を盛り上げよう』と約束しました。

 佐々木は大阪桐蔭など、他県の強豪校から声が掛かりましたが一切拒否。大船渡高へ進学当初は、『復興のために将来は市役所で働く』と話していたそうです

前述したように朗希選手は東日本大震災で自宅を流されたことにより大船渡市に移住したのですが、その移住先で彼は『オール気仙』というチームに入団したのですね

このチームは陸前高田や大船渡など被災した地域の野球少年たちが集まる野球チームだったようですが、そんなオール気仙に所属する選手たちは「地元の高校に進学し野球で被災地を盛り上げよう!!」と約束したというのです

そしてこの約束を朗希選手は高校進学時にも大事にしており、どれだけの名門校から誘われても決してその誘いは受けず幼い頃から共に野球をしている仲間たちと共に地元の高校で野球をすることを決意したのですね^^

そのため彼は大阪桐蔭という超名門からの誘いも断り無名の公立高校と言われている大船渡高校に進学し、幼い頃からのチームメイトたちと3年間野球をすることを選んだということのようです

ちなみに朗希選手は名門校からの誘いを断り続けた理由として「大船渡市立第一中学から一緒にやってきた仲間と野球をしたかったから」と語っていたようですが、その思いは単に仲の良い友達と野球がしたいというものではなく、2011年3月に共に辛い思いをした仲間たちと野球で地元を盛り上げたというものだということですね^^

中学生、高校生ながら非常にしっかりした考えの持ち主だと思うのですが、彼は野球選手としての能力だけでなく人間性も素晴らしいということのようです

残念ながら高校最後の夏には肘の調子が悪いということもあり試合に出ることはできなかったのですが、それでも彼は試合に負けたチームメイトを責めるような態度は一切とらなかったのですね

もちろん高校進学の時点で大阪桐蔭のような名門校に進学していれば甲子園の土を踏み、最高の野球生活を送れたのかもしれませんが、朗希選手からしてみれば自分よりもチームメイトや被災した地元のために甲子園に行きたかったということなのでしょう

朗希選手自身の成長や高校野球生活を考えれば名門校に進学した方が良かったのかもしれませんが、それでもそれは彼の本意ではないということですね

非常に男らしい、かっこいい考え方だと思うのですが、このような人格を持ち続けていればプロ野球、メジャーの世界ではきっと成功できるのではないでしょうか?^^

今回のまとめ

今回の記事では大船渡高校のエース・佐々木朗希選手が大阪桐蔭からの誘いを断った理由について見ていきました

まぁ大阪桐蔭だけでなく多くの名門校からの誘いを彼は断り続けたようですが、その理由は「地元の高校に進学し野球で被災地を盛り上げたかったから」というものだということでしたね^^

高校生の時点でここまで周囲のことを考えることのできる人間はそれほど多くはないと思うのですが、それだけ被災のショックは彼にとっても大きいものだったということなのかもしれません

そしてそんな強い決意を胸に抱いていた朗希選手は実際に名だたる名門校からの誘いを全て断り、地元の無名の公立高校と言われている大船渡高校に進学したのですね

その高校でも順調に成長し高校3年生の頃には日本人最速記録にあと一歩という163kmを計測するまでになったのですが、残念ながら甲子園出場を果たすことはできませんでした

高校最後の試合では朗希選手は肘の調子が悪いということもあり試合に出ることはできなかったのですが、それでも懸命にベンチからの応援を続け中学時代からの仲間たちと共に一心同体となって戦っていたのですね^^

このようなどんな時にでも前を向き続けるメンタルの強さが一体どこで育まれたものなのかは分からないのですが、それでも彼ほどの人格者であれば今後プロ野球、メジャーの世界へとステップアップしても強く戦ってくれるのではないでしょうか?

今では地元だけでなく日本中から注目される存在となった朗希選手なのですが、そんな朗希選手には地元や共に被災した家族・仲間たちのためにも野球選手として大成してほしいものですよね^^

いずれは大谷選手を超えるほどのピッチャーになるのではないかと言われるほどの巨大な才能を持っている彼なのですが、そんな才能は上手に使えば多くの人を喜ばせ、そして勇気づけることができることでしょう

あれほどの才能が朗希選手ほどの人格者に宿って本当に良かったと個人的には思うのですが、彼のあの才能と精神力があれば今後は野球選手としてさらなる飛躍を見せてくれるのではないでしょうか?

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